[cinema] 『平坦な戦場で』
上田映劇で『平坦な戦場で』を鑑賞しました。スクリーンに映し出されるのは平凡な日常。主人公の女子高生は毎朝、自宅の玄関のドアに鍵をかけて近所の路地を通って登校します。ある出来事の前と後でその景色に変化はありません。しかし変わらない風景の中で二人は傷つき変質していきます。直接的に殺す/殺される、という出来事が起きなくても静かに心が殺されていく世界を戦場と呼ばずになんと呼べば良いのだろうと考えた作品でした。
遠上恵未 監督、櫻井成美さん、佐倉萌さんによるアフタートークも拝聴しました。遠上監督が映画制作を始めたきっかけに「職場で若い女性という属性で扱われることにモヤっとした」という言葉を聞いて私の30年前の社会に入りたてのときに感じたモヤっを思い出しました。私が社会人になった30年前は「コピー取りの女の子」という呼び方の残滓が残っていました。職場のおじさんはコピー機を扱いませんし、まして補充するコピー用紙が置いてある場所や補充方法など知りませんでした。当時、新人類と呼ばれた私はあんなおじさんだけにはなるまいと思っていました。あれから30年、コピー機はデジタル複合機に進化し、パソコンのプリンターも兼ねるようになりましたが、おじさんになった今もコピー用紙を補充しています。でも、やっぱりおじさんはコピー用紙を補充しまません。若い男性社員も若い女性社員もコピー用紙が切れても何もしません。ではコピー用紙を誰が補充するかといえば「派遣社員」や「契約社員」といった新しい属性。映画の中でもホームレスの女性が「フリーターとして働き、若い頃にスキルや資格を身につけてこなかった自分が悪いんだ」と話す場面がありますが、コピー用紙の補充が誰にでも任せられる仕事なのかとモヤモヤします。コピー用紙に限らず必要な備品を臨機応変に補充するのは大切だし、経費削減や作業効率アップのために補充する備品を変えていくのは利益直結の仕事だと思いますが、「日本は労働生産性が低い」「AIに仕事が奪われる」なんて評論家や政治家の発言を聞くとモヤを通り越してイラっとします。
舞台挨拶で主演の櫻井成美さんがお話しされた、この映画を見た男性から「主人公の高校生はあの場から逃げることができたはずだ」という感想をもらうことが多いということもグルグルと考えていました。しかし、その感想は自分たちが戦場から遠く離れた安全地帯にいると思い込んでいる無邪気な、もしくは、想像力の欠如した感想ではないのだろうか?と思いました。痴漢の被害者に対して「そんな奴、安全ピンで刺してやればいいんだ」なんて雑なアドバイスを耳にするとがありますが、そういうアドバイスをする人は、見ず知らずの現在進行形で犯罪を犯している犯人に反撃なんかしたら何をされるかわからない、という恐怖心への想像はないんだろうなと思います。私が映画の脚本家だったとして、プロデューサーから「SF要素もいれてみたら?」と言われたと空想します。高校生に超能力を設定して、自分の命と引き換えにウサギの命を救うというプロットにするかもしれません。しかしウサギの命を救ってめでたしめでたしの結末は思い浮かびません。自分の命を削ってまでウサギを助けたのに、精神の安定を崩した女性は救えなかった。その無力感に苛まれる結末にしか辿りつきません。自分の性(生)を差し出した主人公も、自分も相手も傷つけて、ガールフレンドも傷つけて、何も救えないことに絶望したのではないかと感想を持ちました。